目黒競馬場(旧東京競馬場)跡を訪ねて

かつて競馬場があったことを示す「元競馬場前」のバス停

東京競馬場で日本ダービーのあとに行われる目黒記念にその名を残す目黒競馬場。今回はその跡地を訪ねてみました。

目黒といえば、江戸時代は目黒不動尊を中心に人気の観光地で、「江戸名所図会」にも描かれるなど、大変にぎわったと聞いたことがあります。江戸の西端はだいたい今の山手通りあたりだったそうで、手軽に行ける名所だったのでしょう。

その目黒に競馬場がつくられたのは1907(明治40)年。目黒駅から目黒川をはさんだ台地の上にありました。右回りの芝コースのみ。1周は約1,600mの楕円形で、総面積は64,580坪とのことなので、約21万3千㎡。現在の東京競馬場の芝コースが2,083.1mなので長さは約3/4、総面積は約62万2千6百㎡なので広さは約1/3ということになります。
現在の競馬場では、福島競馬場がちょうど1周1,600mなので、イメージ的にはそんな感じでしょうか。ただしダートコースもある福島競馬場とは違って内側にコースがなかったので、おそらくもっと細長く、大井競馬場の外回りコース(1周1,600m)の方が近いかもしれません。

その目黒競馬場ですが、周辺の宅地化が進んで施設の拡張が難しくなったことや、また大部分が借地だったため都市化に伴う地代の高騰、ギャンブルへの風当たりなどもあって、主催者(当時は東京競馬倶楽部)は大正の終わりごろから移転を検討し始めます。
そして誘致に熱心だった府中への移転を決め、今度は借地ではなく土地を買収。1932(昭和7)年から現東京競馬場の地に競馬場の造営を開始し、1933(昭和8)年に完成します。そしてその年の秋の開催を最後に目黒競馬場は閉場し、現東京競馬場に移ったのです。

目黒競馬場の歴史はトータルで26年と短いものでした。その間、日本の競馬は馬券発売の黙許(1906年)による人気沸騰から、馬券発売の禁止(1908年)による一気の低迷。旧競馬法成立による制限付きの馬券発売(1923年)による人気の復活と、大きな変化の中にあったのです。

そして目黒競馬場の大きなトピックスといえば、第1回東京優駿(日本ダービー)が開催されたことでしょう。競馬人気の復興により、日本競馬の父とも言われ安田記念にその名を残す安田伊左衛門によって、イギリスのダービーを範としてつくられたのでした。
その実施は1932(昭和7)年4月24日。目黒競馬場の芝2400mで行われました。出走馬は19頭で、勝ったのは1番人気のワカタカ(函館孫作騎手)。雨の不良馬場で、勝ちタイムは2.45 2/5。4馬身差の圧勝でした。
第2回まで目黒競馬場で行われ、第3回からは府中の東京競馬場に移って現在に至ります。

その目黒競馬場跡地に向かいます。JR目黒駅からバスが便利ですが、今回は歩いていきます。目黒通りを下って目黒川を渡り、大鳥神社、寄生虫館の前を通って歩くこと約15分、「元競馬場前」という名前のバス停が見えてきます。

元競馬場交差点の信号機。この南側にスタンドがありました。

さらに進むと信号機に「元競馬場」と表示された三叉路の交差点があり、そこの歩道に「目黒競馬場跡」と表記された、上に馬の銅像を乗せた碑があります。この南側に目黒競馬場の敷地が広がっていました。目黒通りを背にしてスタンドが建っていたということなので、このあたりから南が当時のスタンドになると思われます。
この碑は、目黒競馬場の歴史を後世に伝えるとともに、第50回日本ダービー(1983(昭和58)年 勝ち馬はミスターシービー)を記念して商店会とJRAによってつくられたとのこと。上にあるのは第1回日本ダービーの勝ち馬ワカタカの父にして、6頭のダービー馬を輩出した大種牡馬トウルヌソルの銅像です。

目黒競馬場跡の記念碑。上はトウルヌソルの馬像。

記念碑から目黒駅方面に少し戻り、最初の角を右に曲がって少し行くと、交差する道があります。これが目黒競馬場の外周道路になります。当時の地図を見ると、1コーナーから2コーナーを経て向こう正面をまっすぐに伸びる、馬場に沿った外周道路がありますが、それが現在もそのまま残っているのです。現在の地図を見ると、きれいな半円形を描く道があり、そのまま直線道路が続いている特徴的な姿がわかります。閉場後に競馬場だった敷地は住宅地となっていったのですが、外周道路はそのまま道路として残されたのでしょう。
左方向に歩いていってみると、車1台が通れるほどの狭い道ですが、弧を描いていることがわかります。そして向こう正面に達すると、そこからは見通しの良い直線道路が続きます。外周道路なので、実際に馬が走った馬場はその内側にあったことになります。

目黒競馬場の外周道路。1コーナー付近からの眺め。カーブしていることがわかります。
目黒競馬場の外周道路。1,2コーナー中間点から2コーナー方面の眺め。
目黒競馬場の外周道路。向こう正面の直線。2コーナー付近から3コーナー方面の眺め。

当時の競馬場をしのばせる痕跡としてはこれぐらいしか残っていないのですが、地面に刻まれた明確な証拠があるということは、実はかなり貴重です。都内には他にも池上や板橋、戸山などに競馬場があった記録がありますが、地図を見てもその痕跡を探すことはできません。宅地化などの開発によって、それらは跡形もなく消し去られてしまったのです。

そのまま向こう正面の直線道路を進みます。突き当りに歩行者だけが通れる細い通路があって、そこを抜けてさらに西に進むと、区立不動小学校があります。古地図と今の地図を重ねて見ることができるアプリを使うと、この小学校のあたりがちょうど3コーナーだったようです。
そして小学校の門の横に、目黒区教育委員会が設置した目黒競馬場跡の掲示板があります。ここにもコースの痕跡を示す道のことや、目黒通りに設置されている記念碑のことが書いてありました。

不動小学校にある目黒競馬場跡の掲示板

不動小学校からマンションを挟んだ東側に、元競馬南泉公園があります。競馬場をイメージしてつくったということで、楕円形の広場が3つありますが、残念ながらあまり競馬場という感じはしないような・・・。
さらに公園が面する道路から東に2本目の南北に走る道が、元競馬場通りです。馬場の中央を縦断する位置になるので、もちろん当時からあった道ではありませんが、バス停や交差点と同じく、競馬場があったことにちなんでつけられたのでしょう。
この道を南にたどると、突き当りを左に曲がって、林試の森公園から目黒不動(瀧泉寺)に行くことができます。

基本的に住宅地なので、歩いていても特に面白みはないのですが、好きな人にとってはコーナーの曲がり具合や、長い直線などは興味を引く部分かもしれません。ただあまり熱心に見ていると、不審な人と思われるのではと、ちょっと心配になるような環境ではあります。
訪れる場合は、そのあたりにも注意する必要があるかもしれないと思いました。

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