ウイニングチケットの思い出

1993年のダービー馬ウイニングチケットが、2/18に北海道浦河町の優駿ビレッジAERUで疝痛のために死亡しました。享年33歳。
朝に疝痛の症状が見られたので診療所に馬運車で連れて行ったところ、着いてから症状が急激に悪化して亡くなったとのこと。馬で33歳はかなりの高齢なので、仕方ないことだったのでしょう。

ウイニングチケットといえば、1993年のクラシックでビワハヤヒデ、ナリタタイシンと3強と呼ばれ、それぞれ1冠ずつ分け合ったことが印象的ですが、ナリタタイシンとビワハヤヒデはともに2020年に相次いで亡くなっており、唯一存命していたのです。
3冠を勝った3頭とも30代まで長生きしたということは、おそらく競馬界でも稀有な例だと思いますが、最後までライバル関係が継続したという意味でも、これからも長く記憶に残ることでしょう。

個人的にはこの年から本格的に1年を通して競馬を見るようになったということもあり、よく覚えています。
1冠目の皐月賞では、ウイニングチケットが1番人気に支持されます。その理由としては、なんといっても中山芝2000mで、葉牡丹賞(500万下)、ホープフルS(OP)、そして弥生賞(G2)と3連勝していたことでしょう。
普通クラシックを狙う馬は、ダービーを意識して1度は東京コースを使うものですが、伊藤雄二調教師は函館で新馬を勝った後、中山にこだわったローテーションを選んだのです。しかもホープフルSは3馬身、弥生賞はナリタタイシンに2馬身と明確な差をつけて勝っていたので、2.0倍という支持も納得できるものでした。

個人的には芦毛のビワハヤヒデに惹かれていたのですが、朝日杯3歳Sは勝ちきれず、若葉S(OP 当時は中山芝2000mで施行)は圧勝したものの、勝ちタイムや相手を見れば弥生賞とのレベル差は歴然で、かなり自信が持てない状況でした。

この年の皐月賞は中山まで見に行ったのですが、結局ウイニングチケットから馬券を買いました。
レースではウイニングチケットは後方から進め、3コーナーから早めに進出すると4コーナーでは先行集団に取り付きます。ところが直線に入るとウイニングチケットは後退し、ビワハヤヒデが抜け出します。後悔しても後の祭り。
しかし最後に外から追いこんできたナリタタイシンがビワハヤヒデをクビ差交わして1冠目を奪取。ウイニングチケットは5位入線で繰り上がり4着という結果に終わりました。

次のダービーでもウイニングチケットは1番人気。しかしビワハヤヒデ、ナリタタイシンと差はなく、ここで3強という存在が明確に意識されたと思います。
この日も東京競馬場に見に行ったのですが、皐月賞で悔しい思いをしたこともあり、ここは初志貫徹でビワハヤヒデに賭けることにして、レースでもビワハヤヒデだけを見ていました。
直線で内から抜けてくる芦毛のビワハヤヒデに懸命に声援を送ったのですが、前に1頭黒い馬がいることには気づいていました。そこで何とか交わしてほしいと叫び続けたのですが、1/2馬身交わせず2着。
ゴール後に勝ったのがウイニングチケットだと初めて気づいたのです。鞍上の柴田政人騎手がダービーを勝っていないことは、メディアの報道で散々言われていたので、応援していたビワハヤヒデは勝てなかったものの、とても温かい気持ちになりました。
そしてレース後のインタビューで、この勝利を誰に伝えたいかと聞かれた柴田政騎手が、「世界のホースマンに、60回のダービーを勝った柴田ですと伝えたいです」と答えたのが、とても印象的でした。

その後、菊花賞トライアルの京都新聞杯(当時は秋に施行)を勝ったウイニングチケットは、2冠を目指して菊花賞に出走します。人気はビワハヤヒデに次ぐ2番人気。
このレースもビワハヤヒデの応援のために京都競馬場まで見に行きました。このレースで早めに先頭に立ったビワハヤヒデはぐんぐんと後続を引き離して、5馬身差の圧勝でようやくG1タイトルを手に入れるのですが、対するウイニングチケットは距離適性の差もあったのか好位から伸びずに3着まで。体調不良が言われていたナリタタイシンは、終始後方のまま17着に大敗しました。

さらにウイニングチケットはジャパンカップに挑戦するもレガシーワールドの3着。
続く有馬記念は得意の中山ということで3番人気に支持されるも、トウカイテイオーとビワハヤヒデのたたき合いには大きく引き離されて、初めての2桁着順となる11着に沈んでしまいます。

翌1994年はG1勝利を重ねるビワハヤヒデとは対照的に勝てないレースが続き、オールカマーこそビワハヤヒデに次ぐ2着に入るものの、続く天皇賞(秋)では8着に敗退。このレース中に屈腱炎を発症していたことがわかり、引退することとなりました。
奇しくもこのレースで圧倒的な1番に支持されながら5着に敗れたビワハヤヒデも屈腱炎が判明。結局相次いで引退するという衝撃的な結果になったのです。
2頭とも約2年という短い競走生活でしたが、強く記憶に残るレースも多く、個人的にはとても濃密な時間だったという印象があります。

種牡馬となったウイニングチケットは、1995年から静内スタリオンステーションで繋養されます。
2000年9月に北海道の馬産地巡りをしたのですが、その時にウイニングチケットに会っています。気性が荒いと聞いていたので、やや遠巻きに見ていたのですが、草を食べながら近づいてきて、最後はポーズをとってくれました。意外と人懐こいのだなと感じたことを覚えています。

2000年9月25日 静内スタリオンステーション

産駒としては、1997年生まれのベルグチケットが1999年のフェアリーSを勝っていますが、これが唯一の重賞勝利と、残念ながら成功とはいえない成績に終わっています。
しかし1998年生まれの産駒オイスターチケットから、チューリップ賞、ローズSともに2着のシェルズレイ、NHKマイルC2着、ダービー3着のブラックシェルが生まれ、さらにシェルズレイから大阪杯を勝ったレイパパレが生まれるなど、のちの競馬界に連綿と影響を与えており、その血はしっかりと受け継がれているのです。

2005年に種牡馬を引退したウイニングチケットは、功労馬として浦河の優駿ビレッジAERUに繋養され、今年亡くなるまでそこで余生を送っていました。
AERUは2回訪れていますが、2007年に行ったときは残念ながらウイニングチケットには合えず、2019年に久々に訪ねた時に再会を果たしました。
当時はウイニングチケット、タイムパラドックス、スズカフェニックスの3頭が隣り合う放牧地にいて、思い思いに草を食んでいました。朝から雨が降っていて、行ったときは雨は上がっていたのですが、見学者はほとんどいない状況でした。
ここでは購入したニンジンを自由にあげることができるのですが、草よりもニンジンの方が好きなのか、ウイニングチケットにニンジンを見せると、さっそく歩いて近づいてきます。そして手からニンジンをくわえると、おいしそうにバリバリと食べてくれます。当時29歳でしたが、背中はやや落ちているものの元気で若々しく、もっとニンジンをくれとせがむようにクビを振ります。
しかし他の馬にもあげないといけないので、もう終わりだというと、がっかりしたようにまた草を食べに戻っていきました。その後、カップルがバケツで勝ってきたニンジンをあげていたので、ウイニングチケットも満足したのではないでしょうか。

2019年8月23日 うらかわ優駿ビレッジAERU

トニービン産駒として初のダービー馬となり、トニービン産駒といえば東京が得意というイメージの先駆けとなった象徴的な存在でした。また長生きをして、多くの競馬ファンや最近のウマ娘ファンにも長く愛されたことで、確実に競馬のすそ野を広げることにも貢献したと思います。
残念ながら浦河に行っても、もう会うことはかないませんが、多くのファンの心の中にはしっかりと生き続けることでしょう。

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