ナリタブライアン

性別 毛色 黒鹿毛
生年月日 1991年5月3日 所属 栗東・大久保正陽厩舎
ブライアンズタイム パシフィカス (母父:ノーザダンサー)
戦績 21戦12勝
(12・3・1・5)
生産者 北海道新冠 早田牧場新冠支場
馬主 山路秀則 騎手 南井克己,清水英次,的場均,武豊
おもな
勝ち鞍
朝日杯3歳S(1993),皐月賞(1994),日本ダービー(1994),菊花賞(1994),有馬記念(1994),
スプリングS(1994),阪神大賞典(1995,1996),共同通信杯(1994)

 最強馬 ナリタブライアン [DVD]

    競馬を本格的に見始めたころ、2年連続で無敗の2冠馬(1991年 トウカイテイオー、1992年 ミホノブルボン)が誕生した。その時に必ず引き合いに出されたのが、1984年に無敗の3冠馬になったシンボリルドルフだった。
    残念ながらトウカイテイオーはダービー後に故障で、ミホノブルボンは菊花賞で2着に敗れて、ともに無敗の3冠はならなかった。それとともに、あらためてシンボリルドルフの偉大さを感じたし、3冠馬をぜひ見てみたいという憧れも強くなった。
    そしてその機会は意外と早くやってきた。1994年のナリタブライアンである。

    ナリタブライアンの兄ビワハヤヒデ(父:シャルード)は、イギリスからの持ち込み馬(外国で受胎した母馬が日本で生んだ馬)として1993年のクラシックを戦い、勝てないまでも皐月賞、ダービーともに2着と好走していた(その後、菊花賞を圧勝)。
    そのため、その半弟で父がブライアンズタイムに替わったナリタブライアンも期待されていた。

    3歳(1993年)

    1993年8月15日に函館芝1200m新馬戦でデビュー。しかし初戦は2着だった。折り返しの新馬戦(当時はデビューと同開催の新馬戦には出られた)を勝ちあがったものの、3戦目の函館3歳Sは離れた6着に敗れてしまう。デビューから負けなしで朝日杯3歳Sに出た兄とは格段の差で、まさに賢兄愚弟という印象を持ったことを覚えている。
    その後、函館の帰路に福島で500万下を勝ったものの、デイリー杯3歳Sは4馬身差の3着と、まだ強さの片りんは見せていなかった。

    しかし自分の影におびえるという気性をカバーするために、初めてシャドーロールをつけた京都3歳Sを3馬身差で勝つと、1番人気の朝日杯3歳Sも中団から1番の上りで3 1/2馬身差で快勝し、一躍クラシックの最有力馬に躍り出る。兄が敗れた朝日杯を制したことで兄の敵を討った形になり、もはや賢兄愚弟とは誰も言わなかった。

    4歳(1994年)

    翌年4歳(現3歳)になったナリタブライアンの初戦は、東京のコースを経験させるためもあり共同通信杯に出走する。この日は京都記念にビワハヤヒデが出走するため、兄弟同日重賞制覇が話題となったが、東京競馬場が降雪のため共同通信杯は翌日に順延となり同日制覇はなくなった。
    残念ながら平日のため見に行くことはできなかったが、コース横に雪が残る中、1.2倍の圧倒的な人気に支持されたナリタブライアンは、好位から抜け出すと4馬身差の圧勝。前日に7馬身差で楽勝したビワハヤヒデに続く2日連続の兄弟による重賞勝利となった。

    続いてスプリングSに出走して、3 1/2馬身差で楽勝。4連勝となった。当初は皐月賞に直行するプランもあったようだが、元気がありすぎるということで、使った方が良いという判断だったらしい。
    今は外厩を活用してなるべくレースを使わない方針の陣営が多く、それと比べるとかなりローテーションがきつい感じがするし、当時もやや使うレースが多いとは思ったが、前哨戦を使うのが当たり前の時代でもあり、決して多すぎるわけではなかったと思う。

    そしていよいよクラシック初戦の皐月賞に臨む。1.6倍の1番人気に支持されたナリタブライアンは、1番枠から中団内を追走。向こう正面で内から徐々にポジションを上げると、4コーナーでうまく外に出し、あとは一気に先団を交わして3 1/2馬身差で危なげない勝利を飾った。
    弥生賞を逃げて勝ったサクラエイコウオーが飛ばしたこともあり、勝ちタイムは1.59.0のコースレコードで、あらためてその強さを感じさせた。これでビワハヤヒデ(前年の皐月賞は2着も菊花賞を勝利)との兄弟クラシック制覇となり、馬主、調教師ともに前年のナリタタイシンからの皐月賞連覇となった。

    ちなみに最後に追いこんできて2着に入ったサクラスーパーオーは9番人気の人気薄だったが、前年のいちょうS2着の印象と、好きな芦毛ということで押さえて、圧倒的1番人気が勝った割によい配当だった。当日は東京競馬場で観戦していたのだが、友人に馬券を取ったことを話していると、隣の人が話しかけてきて、「取りましたか?やっぱりサクラスーパーオーですよね」と盛り上がって握手したことを覚えている。
    この時、南井騎手へのインタビューで、はやる記者が3冠について聞いたのに対して、まずは2冠と冷静に返したことが印象的だった。

    続く日本ダービーは、皐月賞の圧勝もあり、1.2倍という圧倒的な人気。
    今度は外の17番に入ったナリタブライアンは、好スタートから押して好位につける。南井騎手としては、力の違いはわかっているので、包まれたり前がふさがるという不利だけが心配だったのだろう。3コーナー過ぎから外を回して進出すると、4コーナーはかなり大外を回って、直線は内から2/3ぐらいの他の馬がいない馬場のいいところに出す。
    そこから一気に伸びると、内でもがく各馬を置き去りにして、青葉賞勝ちのエアダブリンに5馬身差の圧勝。3冠は確実と思わせる強い走りだった。インタビューで南井騎手も、これでようやく3冠と話しており、個人的にもわくわくしながら夏を過ごし、秋を待った。

    待望の秋初戦、ナリタブライアンは3冠をかけてまずはトライアルの京都新聞杯に出走。単勝1.0倍の元返しと、勝って当たり前と思われていた。
    中団追走から4コーナーは先団に取り付き、直線は先頭に立って突き放すかと思ったのだが、内から抜けてきた神戸新聞杯の勝ち馬スターマンが、するすると先頭に立つと、クビ差競り負けてまさかの2着。ナリタブライアンが負けるとは思っていなかったので、かなり驚いた。前年の京都3歳Sから続いてきた連勝も6でストップしてしまった。

    そして菊花賞。前年に続いて京都競馬場に見に行った。4コーナー寄りの一般席で見ていたのだが、かなりの人で通路の階段にまで座っている人がいて、さすが3冠が掛かっているだけのことはあると思った。ところがパドックで見たナリタブライアンは心なしかおとなしく覇気に欠けるような印象で、前走負けていることもあり大丈夫かなとちょっと不安に思った。
    オッズも1.7倍と春の2冠に比べると上がっており、そのあたりが微妙に反映されていたのかもしれない。

    好スタートを切ったナリタブライアンは、行きたがるのを南井騎手が懸命に抑えて、中団の内を追走する。ややスローな流れだが有力どころはナリタブライアンの後ろにつける馬が多く、かなりの縦長で流れる。さらに向こう正面では、3200mの天皇賞(秋)を逃げ切った名牝プリテイキャストの息子スティールキャストが大逃げとなり、場内が大いに沸く。
    しかし落ち着いて3コーナー手前から追い出したナリタブライアンは、4コーナーで外から進出すると、直線は一気に伸びて残り200mで先頭。そこからは離す一方で、2着ヤシマソブリンに7馬身差をつける圧勝で、シンボリルドルフ以来10年ぶり史上5頭目の牡馬クラシック3冠馬となった。
    初めて生で3冠達成の瞬間を見ることができて、大いに感動したし、表彰式では3冠達成を祝うアドバルーンまで上がって、JRAも含めて関係者の期待が大きかったことを、あらためて感じた。

    ナリタブライアン菊花賞の単勝馬券のコピー 1994年11月6日

    続いて3冠達成後の初戦は有馬記念となった。当初は兄ビワハヤヒデとの初対戦の場になるはずだったが、ビワハヤヒデが天皇賞(秋)のレース中に故障を発生。11月初めに屈腱炎により引退することが発表されて、対戦はまぼろしとなっていた。
    それもあって初の古馬との対戦にもかかわらず、ナリタブライアンは1.2倍の圧倒的な1番人気に支持される。

    この有馬記念は何としても生で見たいと、がんばって指定席にチャレンジした。当時は12月の中山競馬の指定席に入場して抽選で当たる必要があり、初日から早朝の指定席に並んだのだが、その甲斐あって何とか指定席を取ることができた。

    好スタートを切ったナリタブライアンは、大逃げのツインターボを見ながらやや抑え気味に先団の外を追走。3,4コーナー中間で早めに先頭に立つと、いつもどおり直線はぐんぐんと後続を突き放していく。唯一同い年の牝馬ヒシアマゾンが迫るが、3馬身差をつける完勝。3着ライスシャワーはさらに2 1/2馬身離れて、ナリタブライアンの強さだけが印象に残るレースだった。
    これでこの年はG1 4勝となり、年度代表馬に選ばれた。まさに向かうところ敵なしの状況で、前年の年度代表馬である引退した兄ビワハヤヒデに替わって、現役最強馬の地位を引き継ぐことになった。

    ナリタブライアン有馬記念の単勝馬券のコピー 1994年12月25日

    5歳(1995年)

    翌1995年、5歳(現4歳)になったナリタブライアンは、この年も強い姿を見せ続けることが期待され、実際に初戦の阪神大賞典は100円元返しで7馬身差の圧勝を見せた。しかし天皇賞(春)を目指して調教中に股関節炎が判明し回避。ここから運命は暗転していく。

    秋に復帰して、前年に兄のビワハヤヒデが故障して引退することになった天皇賞(秋)に、雪辱と復活をかけて出走する。主戦の南井騎手が怪我のため、的場騎手に乗り替わったが、単勝2.4倍の1番人気となった。個人的にも再び強いナリタブライアンを見られることを期待していた。
    スタートでやや出遅れるものの、中団からレースを進める。4コーナーでは良い手ごたえで好位に取り付き、直線は伸びるかと期待した。しかしそこから大きく失速するとそのまま馬群に飲み込まれ、12着と信じられないような大敗を喫してしまう。

    次走武豊騎手に乗り替わったジャパンCでも、3.7倍とオッズはかなり上がったもののファンはナリタブライアンを1番人気に支持する。しかし中団追走から直線は一瞬伸びを見せるも、その後は伸び一息で0.7秒差6着に終わった。

    さらに前年圧勝した有馬記念ではヒシアマゾンに1番人気を譲り、久々の2番人気となったが、オッズは3.8倍とファンの期待は相変わらず高かった。
    中団から4コーナーでは逃げるマヤノトップガンに迫るシーンもあったが、直線は伸びを欠き4着。相変わらず期待を裏切り続ける形になったが、レースぶりには徐々に改善がみられるように感じた。

    6歳(1996年)

    そしてもう復活は難しいかとも思われていた翌1996年の阪神大賞典で奇跡は起こる。1番人気は前年の菊花賞、有馬記念を勝って年度代表馬となった、1歳下で同じブライアンズタイム産駒のマヤノトップガン。ナリタブライアンは差のない2番人気だった。
    ナリタブライアンは、マヤノトップガンをすぐ前に見る中団を追走。スローペースで進む中マヤノトップガンは3コーナー手前で先頭に立つ積極策。ナリタブライアンの武豊騎手もそれに反応して、3,4コーナー中間でマヤノトップガンに並びかける。
    2頭がまったく並んだまま先頭で4コーナーを回ると、後続は大きく離れて完全に2頭のマッチレース。お互いにまったく譲らないまま、鼻づらをあわせて並んだ叩き合いがびっしりと続く。
    ゴール前でマヤノトップガンが抜け出すが、最後はナリタブライアンが差し返し、アタマ差前に出たところがゴール。ナリタブライアンは、ちょうど1年ぶりの勝利で、これで強いナリタブライアンが復活したと誰もが期待した。

    続く天皇賞(春)は、南井騎手に手が戻って再び定位置の1番人気となる。4コーナーを回って前を行くマヤノトップガンに並びかけた時は、再びマッチレースになるかと思わせた。しかしマヤノトップガンの手ごたえが悪くなると、ナリタブライアンは一気に先頭に立つ。
    大きく抜け出したときは久々のG1勝利かと思わせたが、外から一気に差してきたサクラローレルにゴール直前で差されて、2 1/2馬身差の2着。それでも前年の不振を思えば、明るい未来を予感させた。

    ところがこの後、驚きのニュースが飛び込んでくる。ナリタブライアンの次走が、芝1200mの高松宮杯(この年から春のスプリントG1にリニューアルされて昇格して5/19に中京競馬場で施行)と大久保正調教師から発表されたのである。
    当時もすでに距離体系は確立しており、カミノクレッセ(1992年に天皇賞(春)、安田記念、宝塚記念に出走しすべて2着)のような例はあったが、さすがに天皇賞(春)から距離が1/3近くになるスプリント戦というローテーションは聞いたことがなかった。短距離にも対応できた方が種牡馬価値が上がるというような理由だったと思うが、個人的には3冠馬に対して失礼ではないかと憤りを感じた。マイルの安田記念ならまだわかるが、スプリント戦で好走しても種牡馬価値が上がるとは思えず、納得いかなかった。鞍上は再び武豊騎手となったが、抗議の意味も込めて、ナリタブライアンがらみの馬券は1点も買わなかった。

    出走メンバーは、フラワーパーク、ヒシアケボノなどマイル以下を主戦場にする馬ばかりで、その中でナリタブライアンの存在は異彩を放った。それでもファンはヒシアケボノに次ぐ4.3倍の2番人気に支持する。
    レースではいつもより後方につけ、さすがにスプリント戦のスピードにはついていけないかと見ていたが、最後の直線はすばらしい末脚を見せて、3着ヒシアケボノに1 1/4馬身差に迫る4着まで追い上げたのは立派だったと思う。

    その後、屈腱炎を発症し、結果として高松宮杯がラストレースとなった。
    10月に引退が発表され、11月に京都競馬場と東京競馬場でそれぞれ引退式が行われた。

    種牡馬として、その後

    1997年からナリタブライアンは新冠のCBスタッドで種牡馬になったのだが、その年に初めて馬産地巡りをしたときに会いに行っている。しかし翌年に腸ねん転を発症して、あっけなく亡くなってしまう。産駒は2世代で200頭弱しか残せず、残念ながらその中から活躍する馬は生まれなかった。

    2000年に再び訪れた時には、ナリタブライアンがいた放牧地にナリタブライアン記念館が建設されており、その奥に立派なお墓ができていた。
    その後、早田牧場、CBスタッドの破産にともない、その場所には優駿スタリオンステーションが移転してきて、ナリタブライアン記念館も優駿記念館と名前を変えている。展示内容もオグリキャップなど優駿SS関係の馬に関するものが中心になっているが、ナリタブライアンのお墓は以前のままで、唯一ナリタブライアンをしのべる場所として残っている。

    ナリタブライアンは1997年に顕彰馬に選ばれているが、その後、ディープインパクトオルフェーヴルコントレイルと次々と3冠馬が生まれる中で、産駒の活躍がなかったこともあり、徐々にその存在感が薄れているような気がする。時代の流れで仕方ないとはいえ、一抹の寂しさを感じてしまう。

    ナリタブライアンナリタブライアンのお墓 2000年9月24日 CBスタッド

    ナリタブライアンナリタブライアンのお墓 2007年9月18日 ナリタブライアン記念館

    ナリタブライアンナリタブライアン記念碑 2019年8月23日 優駿スタリオンステーション