ライスシャワー

性別 毛色 黒鹿毛
生年月日 1989年3月5日 所属 美浦・飯塚好次厩舎
リアルシャダイ ライラックポイント (母父:マルゼンスキー)
戦績 25戦6勝
(6・5・2・12)
生産者 北海道登別 ユートピア牧場
馬主 栗林英雄 騎手 水野貴広,菅原泰夫,柴田政人,的場均,田中勝春
おもな
勝ち鞍
菊花賞(1992),天皇賞(春)(1993,1995),日経賞(1993)

 伝説の名馬 ライスシャワー物語 (ハルキ文庫)

    レース中の事故で悲しい最後を遂げた馬が、長く記憶に残り語り継がれるのは、衆目の前でショッキングなシーンとして起きたために、強く心に刻み込まれたということがあるのだろう。また日本人ならではの死生観のようなものも影響しているのかもしれない。古くはキーストンやテンポイント、さらにサクラスターオーやサイレンススズカなど、今でも時折紹介されるのを目にすることがある。ライスシャワーもそんな馬の1頭だろう。
    しかし現役時代は、ミホノブルボンメジロマックイーンの偉業を阻止したヒール的な見方をされることもあった。馬も関係者も勝利を目指して懸命に努力した結果であり、理不尽な扱いではあるのだが、実際にすごく人気がある馬というわけではなかったと思う。

    3歳(1991年)

    ライスシャワーは3歳(現2歳)の1991年8月に新潟芝1000m(当時はまだ直線コースではなく右回り)新馬を勝ち、9月にOP芙蓉Sで2勝目をあげていたが、当時は競馬から離れていたので、実はそれらのレースは見ていないし、ライスシャワーの存在も知らなかった。知ることになるのは再び馬券を買い始めた日本ダービーのときからである。

    4歳(1992年)

    この年の牡馬クラシックの主役はミホノブルボンだった。朝日杯3歳S(現朝日杯FS)を辛勝した後、スプリングSも勝って4戦4勝で臨んだ皐月賞では1.4倍の1番人気。逃げにこだわったミホノブルボンは、皐月賞も見事に逃げ切って無敗の皐月賞馬となる。

    対するライスシャワーはスプリングS1.6秒差4着、皐月賞1.4秒差8着と、ミホノブルボンの影も踏めない形で負け続け、当時ダービートライアルだったNHK杯(東京芝2000m)も0.6秒差8着と敗れる。

    この年から馬連の導入によりフルゲートが18頭となった日本ダービー。OP勝ちの賞金でなんとか出走枠に入ったライスシャワーだったが、単勝114.1倍の16番人気という人気薄。4歳(現3歳)になってからの成績を見れば仕方ない評価だった。

    対する無敗のダービー馬を目指すミホノブルボンは、距離不安をささやかれながら2.3倍の1番人気。皐月賞の走りに魅せられて大ファンになったこともあり、ミホノブルボンからの流し馬券を買うことにした。
    馬連導入から間もないこともあり、実はまだ枠連で買っていた。ミホノブルボンは7枠で、同枠に青葉賞勝ちのゴールデンゼウスが入っていたので、枠連7-7を買おうと思ったのだが、同じ7枠にもう1頭ライスシャワーがいた。成績的に来るとは思えないので、ここだけ馬連にしようかとも考えたが、マークシートを別に塗るのも面倒なので、そのまま枠連で買った。

    実はこれが競馬場で見た初めての日本ダービーだった。人が多くてどこで見ればよいかよくわからなかったので、わりと人の少ない内馬場で見ることにした。これが大失敗で、ターフビジョンの前にいたのだが、直線に入ると馬場と背後のターフビジョンと交互に見ることになり、実にせわしない。

    さっそうと先頭を走る頭の高いミホノブルボンの直後を、クビを下げて対照的な姿で追走するライスシャワーだったが、いずれ失速するのだろうと気にもしていなかった。
    直線に入って突き放していくミホノブルボンに声援を送る。残り200mで4馬身ほど抜けだしたミホノブルボンの姿に、無敗の2冠をほぼ確信した。あとは2着だったが、粘るライスシャワーの外から田原騎手騎乗のマヤノペトリュースが2番手に上がってくる。この馬が対抗だったので、予想通りと思ったのだが、内のライスシャワーも粘る。1着ミホノブルボンから4馬身差で2頭が並んでゴールするが、写真判定の結果、2着はライスシャワーとなった。

    馬連導入後初の日本ダービーで、圧倒的1番人気が勝ったにもかかわらず、いきなり29,580円の大穴馬券となった。個人的には代用の枠連が当たったが、その配当は1,370円。馬連の爆発力に驚かされた。
    その原因は突然好走したライスシャワーだったが、さまざまな分析がなされる中、やはり注目されたのは血統だった。リアルシャダイの代表産駒の1頭オースミシャダイが2年前の阪神大賞典、日経賞を勝っており、前年の天皇賞(春)でも3着に好走。長距離に強いという評価が定着しつつあった。調子が上がってきたということもあったようだが、距離が伸びて良さが出たということも大きかったのだろう。

    夏を休養に充てて、秋の初戦にライスシャワー陣営が選んだのはセントライト記念だった。ダービー好走によって一気に3番人気となる。
    的場騎手が函館3歳Sに騎乗するため田中勝騎手が代打を務めたが、勝負所でムチがたてがみにからむというアクシデントもあり、ミホノブルボンと同厩舎のレガシーワールドにアタマ差2着と敗れてしまう。

    続いて当時菊花賞トライアルとして行われていた京都新聞杯に出走。日本ダービー以来のミホノブルボンとの対戦になったが、先行して必死に追うも1 1/2馬身差の2着。しかし日本ダービーからは大幅に着差を詰め、本番での有力な対抗馬の地位を得た。

    そして菊花賞では、相変わらず距離不安がささやかれながら無敗の3冠馬を目指し1.5倍の1番人気になったミホノブルボンに次ぎ、7.3倍の2番人気となる。
    個人的にもミホノブルボンの相手はライスシャワーか、日本ダービー4着のマチカネタンホイザだろうと、ミホノブルボンの単勝と2頭への馬連を買って、東京競馬場でレースを見守った。

    神戸新聞杯を逃げ切ったキョウエイボーガンがミホノブルボンのハナをたたいて逃げ、ミホノブルボンは2番手でやや行きたがる。ライスシャワーは2頭を見る5番手を追走する。
    2周目4コーナー手前で先頭に立ったミホノブルボンに、直線ではマチカネタンホイザとライスシャワーが迫る。ミホノブルボンも懸命に粘るが、残り100mでは3頭が横一線。そこから外のライスシャワーがじりじりと先頭に立つ。ミホノブルボンもなんとか内のマチカネタンホイザは抑えるも1 1/4馬身差2着まで。見事にライスシャワーが春2冠と京都新聞杯の雪辱を果たし、最後の1冠を勝ち取った。
    個人的にはミホノブルボンの無敗3冠がついえたことで悔しさしか残らなかったが、やはり血統に裏打ちされた距離適性は、ハードな調教だけでは覆せないということを、身にしみて感じさせられた。

    次走ライスシャワーは有馬記念に参戦し、4.9倍の2番人気に支持されるが、菊花賞の疲れがあったのか精彩を欠いた走りで、見せ場なく8着に敗れた。

    5歳(1993年)

    年明け初戦はハンデ戦の目黒記念(当時は2月に実施)に59kgで出走して2着と好走し、続く日経賞は1.8倍の人気に応えて2 1/2馬身差で快勝。天皇賞(春)に向かう。

    この年の主役は、天皇賞(春)3連覇を狙うメジロマックイーンだった。重賞3連覇を飾った馬はいたが、G1 3連覇を成し遂げた馬はおらず、もし実現できれば空前絶後ともいえる大記録だった。そのメジロマックイーンは産経大阪杯を5馬身差で快勝してのぞんでおり、オッズは期待を込めて1.6倍。対するライスシャワーは5.2倍の2番人気だった。

    この時のライスシャワーの最終追い切りは今でも覚えているが、ゴールを過ぎても的場騎手がムチを入れ続けるという過酷なものだった。そして当日は、ただでさえ細いライスシャワーの馬体重が-12kgの430kg。さすがに調教が強すぎたのではないかと、大いに不安に思った。
    そしてパドックでは常に気合を表に出してツルクビで歩くのだが、この時はいつにも増して気合が乗っているように感じた。

    外から先行したメジロマックイーンを、まさに影のようにぴったりとマークして、ライスシャワーが直後を進む。2周目4コーナー手前で馬なりで先頭に立ったメジロマックイーンの白い馬体に、まるで獲物を狙う肉食獣のように追って上がってくる黒い馬体を見たときは、背筋が寒くなるような迫力を感じた。そして直線でのすさまじいたたきあい。いつもなら他馬を簡単に突き放すメジロマックイーンが、思わぬ苦戦を強いられ、さらにあろうことか残り200mでライスシャワーにかわされて離されていく。
    そのまま力強く脚を伸ばしたライスシャワーが、最後は追わずに2 1/2馬身という決定的な差をメジロマックイーンにつけて、G1 2勝目を飾った。
    明るい淀の陽光に照らされて、ライスシャワーの馬体は黒く光り輝いていた。今から思えばこれがライスシャワーの競走生活のピークだったが、もちろん当時はそんなことを知る由もなく、その後の明るい未来を示唆するような姿に見えた。

    個人的にはメジロマックイーンのG1 3連覇に期待していたので残念な気持ちもあったが、ライスシャワーと的場騎手の人馬一体となった勝利への気迫を見せられたことによる感動も同時に感じて、複雑な感情を味わった。
    メジロマックイーンは、次走の宝塚記念を勝ち、秋の京都大賞典では2.22.7という京都2400mのレコードで走ったように、決して年齢的に衰えていたわけではない。それを渾身の力で破ったライスシャワーが、いかに気持ちで走る馬だったかということがわかる。

    夏を休養にあてたライスシャワーは、オールカマーで復帰する。天皇賞(春)の強さが目に焼き付いているファンは1.8倍の1番人気に支持した。
    個人的にも連は外さないだろうと思い、ツインターボの大逃げをわくわくしながら見ていたのだが、肝心のライスシャワーの脚色が悪い。最後にようやく差してきたものの、大井から参戦したハシルショウグンを捉えられず3着に終わった。

    次走の天皇賞(秋)も3.0倍の1番人気となるが、ヤマニンゼファーとセキテイリュウオーのたたきあいからははるかに遅れる6着。
    さらにジャパンC14着、有馬記念8着と、見る影もないような惨敗を繰り返す。天皇賞(春)の過酷ともいえる調教と渾身のレースの反動があったのだろうが、精彩を欠くその走りからは、ある意味燃えつきて気持ちが切れてしまったような印象も受けた。

    6歳(1994年)

    年明け初戦の京都記念は、ビワハヤヒデには大きく離されたものの、2着とはあまり差のない5着で久々の掲示板を確保。次走の日経賞は先行して早め先頭に立ち、ハナ差2着に敗れるも、久々にライスシャワーらしいレースを見せた。

    これでようやく復活して天皇賞(春)連覇に向かうかと思われたのだが、栗東トレセンでの調教中に骨折。かなりの重賞で引退の話もあったようだが、長距離に偏った成績や小柄な馬体から種牡馬入りが難しかったこともあり、現役を続行することになった。

    怪我が癒えて復帰したのが有馬記念。
    この年はナリタブライアンがシンボリルドルフ以来10年ぶりの3冠馬となり、有馬記念でも1.2倍の圧倒的な1番人気。対するライスシャワーは17.7倍の4番人気だった。
    ここまでの成績と9か月の休み明けという状況から、好走は難しいだろうと思っていた。しかし圧勝のナリタブライアンと、さすがの強さを見せた2着ヒシアマゾンから、離れた3着争いを制したのはライスシャワーだった。この時、なんとなく翌年はライスシャワーの復活があるかもしれないと思った。

    7歳(1995年)

    前年と同じく京都記念、日経賞のローテーションをとったライスシャワーだったが、どちらも1番人気に支持されながら6着に敗れる。特に日経賞は中団を進みながらも、最後は伸びを欠いて1.3秒差の大敗。不良馬場だったことを加味しても、天皇賞(春)に向けて、大いに不安の残る結果だった。

    それでも天皇賞(春)でファンはライスシャワーを5.8倍の4番人気に支持した。しかし個人的には、勝ち負けは難しいだろうと思っていた。
    2戦の負けで、前年の有馬記念の時に復活があるかもと思ったことをすっかり忘れていたのだが、それを思い出したのは、2週目3コーナー手前で、ライスシャワーがセオリーを無視した早仕掛けで、ぐんぐんと馬群を引き離していった時だった。ここだったかと思っても、後の祭りだった。
    しかしその最後の直線は、2年前に陽光の中で颯爽とメジロマックイーンを下した姿とは程遠く、脚があがって息も絶え絶えという感じで、曇天の下、重馬場に足を取られながらも懸命にゴールを目指して走っていた。
    そして最後は、大外を追い込んできたステージチャンプと離れてほぼ同時にゴール。ステージチャンプの蛯名正騎手が思わずガッツポーズをするほど、ゴール前の脚色は違っていた。そして写真判定の結果、ハナ差でライスシャワーが残っていた。

    この年は1月に阪神淡路大震災があり、阪神競馬場も大きな被害を受けて競馬開催ができない状況だった。そのため宝塚記念は場所を京都競馬場に移し、日程も1週繰り上げて6/4に行われることになった。
    ファン投票の1位は、2年ぶりに天皇賞(春)を制したライスシャワーが選ばれた。2年前は宝塚記念を回避していたので、個人的には出ないのではないかと思っていたのだが、陣営は出走を決断する。その理由は、ファンに1位に選んでもらったということのほかに、たぶん得意の京都で行われるということもあったと思う。

    あとから考えると、あの天皇賞(春)でハナ差で負けていたら、あるいは地震がなくて宝塚記念が予定通り阪神競馬場で行われていたら、あの悲劇はなかったのではとも思うのだが。結果的に精根尽き果たした天皇賞(春)の走りが、宝塚記念での悲劇の引き金になったのだろう。

    レースは東京競馬場のターフビジョンで見ていたが、転倒シーンのあとはショックで声も出なかった。馬券は当たったが喜びはまったくなかった。
    その晩は用事がありテレビのハイライト番組を見られず、当時はネットもなかったので、コース上で安楽死の処置をとられたことは、翌日のスポーツ紙で知った。主を失った頭絡を握ったまま号泣する厩務員や、飯塚師の制止も聞かずに馬運車の亡骸に対面する的場騎手の様子を読んで、涙を止めることができなかった。

    1週間を暗い気持ちで過ごした後、翌週の土曜日(6月10日)に東京競馬場の正門向いにある馬頭観音に、ライスシャワーの冥福を祈りに出かけた。ミホノブルボンやメジロマックイーンの偉業を阻んだライスシャワーには複雑な思いがあったので、その贖罪的な気持ちがあったのだろう。我ながら「死者にムチ打たない」的な日本人らしい考え方に染まっているなと感じてしまう。
    そしてその日の東京競馬2Rで、ライズライズというリアルシャダイ産駒の牝馬に出会うことになる。

    その後と競走馬としての総括

    1995年のJRA賞で、ライスシャワーは特別賞を受賞した。
    また翌年には、京都競馬場内にライスシャワーの碑が建立された。この碑は改装後も残されている。改装なった2023年10月に訪れて驚いたのだが、お参りする人の長蛇の列が、常に途切れることなく続いていた。見たところ現役時代を知らないであろう若い人たちが多く、馬ムスメの影響が大きいのだろうが、忘れずに語り継がれていっているということを知って、うれしく思った。

    ライスシャワー
    ライスシャワー碑 2023年10月15日 京都競馬場

    ライスシャワー
    ライスシャワー碑にお参りする人の列 2023年10月15日 京都競馬場

    結果として3勝したG1はすべて3000m以上で、古馬になって連対したのも2500m以上の日経賞と目黒記念ということで、純粋なステイヤーという評価が定着している。しかし少なくとも3歳時は1000m、1600mで勝っており、その後も2200mで好走していて、長距離しか走らないというわけではなかったと思う。
    残念ながらライスシャワーは産駒を残せず、リアルシャダイの後継種牡馬もなく、その血統はなくなりつつあるが、せめてその生きざまは語り継いでいきたいと思う。