ビワハヤヒデ

性別 毛色 芦毛
生年月日 1990年3月10日 所属 栗東・浜田光正厩舎
シャルード パシフィカス (母父:ノーザンダンサー)
戦績 16戦10勝
(10・5・0・1)
生産者 福島桑折 早田牧場
馬主 (有)ビワ 騎手 岸滋彦、岡部幸雄
おもな
勝ち鞍
菊花賞(1993),天皇賞(春)(1994),宝塚記念(1994),デイリー杯3歳S(1992),
神戸新聞杯(1993),京都記念(1994),オールカマー(1994)

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    競馬初心者のころは、特徴のある馬にどうしても目が行く。逃げ馬だったり、派手な流星だったり。芦毛もその一つだろう。特に関心を持ち始めたころにオグリキャップやタマモクロスが活躍していたこともあり、個人的に芦毛馬には惹かれるところがあった。

    そんなころに現れたのがビワハヤヒデだった。本格的に競馬を始めた直後でもあり、その強さが印象的で、とても思い出深い馬の1頭だ。

    3歳(1992年)

    その名前を初めて聞いたのは、2戦目のOPもみじSを勝ったあとだったと思う。当時は関東で買える関西のレースは重賞のみで、したがってそれ以外のレースはテレビ中継もなかったので、どんなレースぶりかはわからなかったが、すごく強いらしいという評判だけが聞こえてきた。

    その後、デイリー杯3歳Sで重賞初制覇を飾ると、朝日杯3歳Sで初めて関東にお目見えする。
    その成績はもちろん、タマモクロスからオグリキャップ、ホワイトストーン、さらにメジロマックイーン、プレクラスニーと続く強い馬のトレンドである芦毛であることも、人気に拍車をかけたと思う。

    当時は特徴的な赤いメンコをつけていたので、のちに話題となる顔の白さや大きさは気づかなかったが、そのがっちりとした体は印象的だった。
    さらに3年前に最低人気のサンドピアリスでエリザベス女王杯を制して売り出し中の、主戦の若手の岸滋彦騎手が、圧倒的1番人気の馬をどう乗るかも、注目されていた。

    しかし1.3倍に支持されたビワハヤヒデは、直線の追い比べで南井騎手の乗る3番人気の外国産馬エルウェーウィンに、ハナ差で敗れてしまい、圧倒的人気を裏切ってしまう。

    4歳(1993年)

    続く共同通信杯でも1.3倍の人気を裏切ってアタマ差2着。これで主戦の岸騎手は降ろされ、次の若葉Sからは当時のトップジョッキーの岡部騎手に乗り替わる。

    若葉Sは8頭立てのOPということもあり楽勝するのだが、実はビワハヤヒデの関東での勝利は若葉Sと翌年のオールカマーのみ。関西では8戦して1度も負けなかったのに、関東では2・5・0・1と故障したレース以外連対は外さなかったものの、やや勝ちきれない印象。
    個人的には岸騎手に同情してしまう。

    そして勇躍クラシックに向かったものの、皐月賞は好位から先頭に立ちウイニングチケットを抑えて勝ったかと思ったところを、外からナリタタイシンに差されてクビ差2着。
    ダービーも好位から進めたものの、4コーナーで先に抜け出したウイニングチケットを最後まで捉えられず1/2馬身差でまたもや2着。
    ともにビワハヤヒデを応援していたので悔しい思いをした。特にダービーはビワハヤヒデしか見ていなかったので、終わってから勝ったのがウイニングチケットとわかった次第。柴田政人騎手の初ダービー制覇は感動的だったが、複雑な心境でもあった。

    夏を無事に過ごしたビワハヤヒデは、初めてメンコを外して素顔で臨んだ神戸新聞杯を快勝し、最後の1冠の菊花賞に向かう。
    実はこのとき、菊花賞を見るために初めて京都競馬場に行った。当時大阪に住んでいた友人に案内されて4コーナー前のスタンド上段で見たのだが、目の前で抜け出したビワハヤヒデは直線で後続を離す一方。その後ろ姿を見ながら、ようやくG1、しかもクラシックを勝てたと喜んだことを覚えている。
    終わってみれば2着ステージチャンプに5馬身差の圧勝。ビワハヤヒデの強さのみが印象に残り、同世代最強を証明したレースでもあった。

    そして次に臨んだのが年末のグランプリ有馬記念。菊花賞の強さが評価されて、なんと3.0倍の1番人気に支持された。しかしこの年は、JCを勝ったレガシーワールドや天皇賞(春)を圧勝したライスシャワー、同じ年のダービー馬ウイニングチケット、オークス馬ベガなどなかなかの豪華メンバー。さらに1年ぶりのトウカイテイオーもいて目移りする。
    個人的には、大好きだったトウカイテイオーとビワハヤヒデが直線でたたき合いになったら、どちらの名前を叫ぼうかと思いながらも、常識的に1年ぶりの馬が来るのは難しいだろうとビワハヤヒデから連勝馬券を買い、トウカイテイオーは単勝を買ったことを覚えている。
    そして結果はまさかのトウカイテイオー優勝。感動的なレースのかげで、ビワハヤヒデはよく粘ったものの、1/2馬身差2着と引き立て役となってしまった。

    5歳(1994年)

    翌1994年は初戦京都記念を1.1秒差で圧勝した後、天皇賞(春)、宝塚記念とG1を連勝。現役最強馬を印象付ける。そして秋初戦のオールカマーも勝って、この年は負けなしの4連勝。
    1歳下の弟ナリタブライアンが皐月賞、ダービーを勝って3冠馬を目指しており、年末に予想される兄弟対決に大きな期待が寄せられていた。

    そんな中、ビワハヤヒデが目指したのが天皇賞春・秋連覇。その天皇賞(秋)でも1.5倍の圧倒的な1番人気に支持される。しかし当時、天皇賞(秋)は1番人気が勝てないのが有名で、1965年にシンザンが勝った後、1番人気で勝ったのは1984年ミスターシービー、1987年ニッポーテイオーのわずか2頭。
    その後もオグリキャップが3年連続破れたり、1位入線のメジロマックイーンが18着降着になったりと人気通りには収まらない。

    しかしその強さから、7年ぶりにビワハヤヒデが1番人気に応えるのは間違いないだろうと、東京競馬場の大勢の観客に交じって声援を送った。
    ところが直線外から差を詰めてきたものの、いつもの力強い伸び脚が見られず伸びない。あんなに強いビワハヤヒデですら、崩せない強力なジンクスだったかと、思わず頭を抱えてしまった。

    初めて連対を外す5位で入線した後、向こう正面で岡部騎手が下馬してしまう。何事かと心配したのだが、診断結果は屈腱炎。命に係わるような怪我でなかったことは幸いだったが、復帰には時間がかかるということもあり、引退が決まった。
    これで期待されていた弟ナリタブライアンとの対戦も永遠になくなり、とても残念に思ったことを覚えている。

    引退後

    引退後は日高の日西牧場に繋養されていたが、基本的に見学を受け付けていなかったため、残念ながら会いに行くことはできなかった。しかし一度だけ、少し離れたところに車を止めて、遠くからビワハヤヒデの姿を眺めたことがある。

    最初の頃はコンスタントに産駒を出したものの、結局重賞勝ち馬を出すことはできず、2005年に種牡馬を引退。
    2019年、たてがみを切られる被害にあって久々にその名前を聞いたのだが、ネガティブな話題でしか取り上げられないのは皮肉だなと思っていた。

    そして翌2020年7月21日訃報が入った。享年30歳。サラブレッドとしては長生きの方だと思う。ともに走った同い年の皐月賞馬ナリタタイシンもその年の4月に亡くなっているが、ダービー馬のウイニングチケットは浦河のAERUで2023年2月に33歳で亡くなるまで暮らしていた。
    3冠を分け合った3頭とも、そろって長寿ということは、珍しいことではないだろうか。