ツインターボ

性別 毛色 鹿毛
生年月日 1988年4月13日 所属 美浦・笹倉武久厩舎,上山・秋葉清一厩舎
ライラリッジ レーシングジイーン (母父:サンシー)
戦績 中央22戦5勝
地方13戦1勝
生産者 北海道静内 福岡敏宏
馬主 黒岩晴男 騎手 石塚信広、大崎昭一、柴田政人、柴田善臣、
中舘英二、田面木博公、宗像徹、田中勝春、
武豊 (中央時代のみ)
おもな
勝ち鞍
ラジオたんぱ賞(1991),七夕賞(1993),オールカマー(1993)
    馬の脚質は、いろいろな要素で決まる。例えば追い込み馬は、末脚を長く使える必要があるが、こと逃げ馬に関しては、気性が大きく関係すると思う。例えば、カブラヤオーのように他馬を怖がるとか、あるいは前に馬がいるとどうしても追いかけてしまう馬の場合は、逃げという脚質が最適な選択となり得る。
    絶対的にスピード能力が高い馬は、逃げるのが一番有利であり、それを体現しようとしたのがサイレンススズカだったのは、武豊騎手の話からも有名だが、普通はスローで逃げてあわよくばという馬が多い気がする。そのため、競馬歴が長いほど、逃げ馬を軽視する傾向が多いように思う。しかし逆に初心者の場合は、逃げ馬はある意味印象的であり、最初に記憶に残ったりする。
    私にとっても、ツインターボはそんな存在で、とても印象深い逃げ馬の1頭である。

    4歳(1991年)

    ツインターボがデビューしたのは1991年3月2日。中山ダート1800mで逃げて3馬身差の圧勝。ここから逃げが合っていると判断されたのか、中央時代の22戦はすべて逃げるという、徹底的に逃げに徹する競走生活を送ることになる。
    ツインターボの場合、気性の激しさというよりも、とにかく一所懸命に走るというイメージがある。スタートして最初からトップスピードで走るので、結果として逃げることになるという感じ。そのため、他馬の騎手はついていくとつぶれると思い、逃げさせてしまうのではないだろうか。

    2戦目の中山芝2000mも逃げ切ると、ダービーを目指して大崎昭一騎手を背に青葉賞に出走するも、さすがに逃げつぶれて9着と初の敗戦。しかし夏の福島芝1800mラジオたんぱ賞を逃げ切って、初重賞制覇を飾る。続くオールカマー、福島記念と逃げて2着に粘り、直線の短い競馬場とは相性が良いところを見せたが、さすがに有馬記念は荷が重く、14着と大敗した。

    5歳(1992年)

    翌年(1992年)は体調が整わず、秋まで休養して復帰したものの、まったくよいところがなく負け続けた。
    個人的には、この年に本格的に競馬を始めたので、実はここまでのツインターボについては、ほとんど知らなかった。

    6歳(1993年)

    その名前を強烈に意識したのは、テレビで見た1993年の七夕賞だった。このレースで、逃げに定評のある中舘騎手に乗り替わったものの、逃げ馬が揃ったこともあり、かなりのハイペースで飛ばすことになる。4コーナーでも5馬身以上離していたものの、手ごたえはかなり苦しそうで、いつ後続に飲み込まれるかと見ていたのだが、なんとそのまま離して4馬身差の1着。中舘騎手の絶妙のレース運びと、それに応えたツインターボの走りは、初心者にとってはかなり印象的だった。

    そして次に出走するオールカマーは、東京競馬場に行ってターフビジョンで見ることにした。ここには、天皇賞(春)でメジロマックイーンを下したライスシャワーが休み明けで出走してきており、さすがにそれには逆らえないものの、本命に近い対抗としてツインターボからも何点か流したことを覚えている。
    レースでは、七夕賞以上のけれんみのない逃げで1コーナーから2コーナーを回っていくと、向こう正面でもどんどん後続を離していき、10馬身以上の大差をつけていく。カメラは、いったん最後方まで映した後、ずっと先頭まで戻っていくのだが、かなり差が開いているのがわかる。そして3コーナー手前で先頭のツインターボを捉えると、ここでカメラが止まり後続を待つ。しばらく馬のいないターフが映った後、白い影が横切る。2番手のホワイトストーンだ。さらに馬のいない画像が続き、周りのざわめきが大きくなってくる。実際は3秒もなかっただろうが、かなり時間が経ったと思われたころ、ようやく後続馬群が映り、それとともにカメラも動き始める。

    そして次に引きの映像になったときに、驚くほどの差がついていることがわかって、まだ3コーナー過ぎなのに、早くも大歓声が起こる。ツインターボへの声援と、後続の馬への叱咤の声が合わさって、まるでゴール前のような雰囲気。そして4コーナーを回った時は、まだ8~10馬身ほどの差があり、中山競馬場の短い直線を考えると、後続の馬にはほぼ絶望的な差。めったに見ることのない大逃げの展開に、かなりわくわくしていた。
    直線徐々に後続も差を詰めてくるが、残りを考えるとすでにセーフティリード。七夕賞よりも楽な手ごたえでツインターボは先頭でゴール。あとは2着と、本命のライスシャワーを見ると、4番手でもがいている。最後にホワイトストーンを交わすも、地方から挑戦してきたハシルショウグンには届かず痛恨の3着。残念ながら馬券は外したが、ただただ爽快な気分が残ったことを、よく覚えている。

    次走の天皇賞(秋)は、何と前日発売でツインターボが1番人気になる場面もあったが、さすがに直線の長い東京の馬場で3連勝はないだろうと見ていると、逃げつぶれてのしんがり負け。イチかバチかの、ある意味ツインターボらしいレースを見せてくれた。

    この年(1993年)の有馬記念は、トウカイテイオーが1年ぶりながら勝利をするという印象的なレースだったのだが、フジテレビの競馬中継で最後にこの年のベストレースの話になった。そんな感動的なレースになるとは思わなかったので、みんな有馬記念がベストレースですねと言いながらも、事前にあげたベストレースを紹介していた。その中で、ゲストの上田正樹氏がオールカマーをあげていて、さすがよくわかっていると個人的に激しく同意したことが印象深い。

    7歳(1994年)以降

    翌1994年もツインターボは走り続けたが、残念ながら輝きを取り戻すことはなく、逃げても4コーナー手前でつかまり、大敗を繰り返した。そして1995年春に、大井の帝王賞への挑戦が発表された。しかも鞍上は武豊騎手。新たな可能性を引き出したいという陣営の賭けだったのだろう。
    このレースは大井競馬場まで見に行ったが、すごい人で驚いた。そしてスタートを切ったのだが、もっと驚いたのが、武騎手がツインターボを最後方から進めたこと。何とツインターボで追い込むのかと、その斬新さに唖然とさせられたが、単に出遅れたようで、最後方のまま最下位に敗れた。個人的には、これがツインターボを生で見る最後の機会となった。

    その後、公営の上山競馬に移籍したツインターボは、結局1勝しかできず8歳(現7歳)で引退。青森で種牡馬になったものの活躍馬は出せず、1998年に亡くなっている。
    戦績は中央で5勝(うち重賞3勝)と派手なものではないが、いまだにオールドファンには人気があり、逃げ馬というと名前があがる。あのあわてたように駆けていく姿と、青いメンコは、いつまでも鮮烈な記憶として、多くの競馬ファンの心に残り続けると思う。