サンエイサンキュー

性別 毛色 芦毛
生年月日 1989年4月7日 所属 美浦・佐藤勝美厩舎
ダイナサンキュー グロリーサクラ (母父:シーホーク)
戦績 17戦5勝
(5・5・0・7)
生産者 北海道えりも町 寺井文秀
馬主 岩崎喜好 騎手 徳吉孝士、東信二、田原成貴、加藤和宏
おもな
勝ち鞍
クイーンC(1992),札幌記念(1992),サファイヤS(1992)
    サンエイサンキューについては、競走馬を金儲けの道具、いわゆる経済動物としか考えない馬主と、その馬主に言われるがままで管理能力のない調教師の犠牲になったという文脈で語られることが多い。今ならSNSなどのネットで叩かれるのだろうが、当時その役割を期待されたのはマスメディアだった。しかしそのメディアも、サンエイサンキュー事件と呼ばれる問題を起こし、競馬メディアのあり方を問われることになった。
    そんな人間の騒動とは関係なく、過酷なローテーションに耐えて健気に走ったサンエイサンキューは、いろいろな意味でとても印象深い馬の1頭である。

    3歳(1991年)

    サンエイサンキューがデビューしたのは、1991年7月13日札幌ダート1000mの新馬戦だった。しかしそこからいきなり3連闘という3歳馬(現2歳馬)には過酷なローテーションを組まされる。
    私はその年の春に初めて馬券を買った初心者だったが、あまりに当たらないのでしばらく買うのをやめており、競馬も見ていなかったので、実はそのデビューはもちろん、その後のサンエイサンキューの活躍も翌春まで知らなかった。

    その後、サンエイサンキューは函館3歳Sで2着に入ると、OPいちょうS(現サウジアラビアRC)を勝ってクラシック候補に名乗りを上げる。さらに暮れのG1阪神3歳牝Sではニシノフラワーの2着に好走した。この時点ですでに7戦しており、今ならクラシックを狙う有力馬としては、あまり見ることのない戦歴である。

    4歳(1992年)

    年が明けて1992年、初戦に選んだクイーンCで先行すると、競り合いをアタマ差制して初重賞制覇を飾る。すると次走は、なぜか牡馬相手の弥生賞に挑戦して6着。
    そして桜花賞に出走する。阪神3歳牝S2着でクイーンC1着という戦績からニシノフラワーに次ぐ2番人気に支持されるが、中団から伸びず7着に敗れる。

    この年の天皇賞(春)から再び馬券を買いだした身としては、オークスで初めてサンエイサンキューと出会うことになった。しかし桜花賞7着という成績を見て、早々に馬券対象からは外してしまう。
    今なら、クイーンCを勝って桜花賞で負けた関東馬は、オークスではねらい目だと思う。しかし初心者にはそんな知識はなく、直線で後方から素晴らしい末脚で差してきて、アドラーブルの1/2馬身差2着に入ったサンエイサンキューには、ただただ驚かされた。桜花賞で2番人気だったのかと知っても、後の祭りだったのである。
    そしてこのオークスが、田原騎手がサンエイサンキューに乗った最初のレースだった。

    クラシックを戦った馬たち、とくに上位に入って秋を狙える感触をつかんだ馬は、オークスやダービーが終わったら夏休みに入るのがふつうである。
    しかしサンエイサンキューは夏も走り続けた。7/5の札幌記念(当時はG3)を古馬の牡馬相手に52kgで勝って重賞2勝目を挙げると、8/23に函館記念にも出走。さすがにここは55kgを背負ったこともあり、8着に敗れる。

    さらに秋になると、当時はエリザベス女王杯(3歳牝馬3冠の最終戦で現在の秋華賞の前身)の前哨戦として2戦あったレース、サファイヤS、ローズSにともに出走してきた。サファイヤSは勝ったが、ローズSは2着に敗れてしまう。

    そしてエリザベス女王杯の追い切り翌日に事件は起こった。サンスポの1面に正確には覚えていないが「田原問題発言!これで2着以上なら坊主になる」というような見出しが躍ったのである。
    あわてて買って読んでみると、馬の調子が疲れのために明らかに落ちており、こんな状態でもし2着にでもきたら坊主になると、サンエイサンキューの追い切り後に田原騎手が話したというのである。事実であれば公正さが疑われるような発言であり、田原騎手がJRAから事情を聴かれるという騒動になった。

    ところが実態は違った。サンエイサンキューの調子が落ちていることを、田原騎手がかなり強い調子で記者たちに話したのは事実だが、最後に冗談めかして、もしこれで2着にでも来たら坊主にならなきゃいかんなと付け加えたのだという。
    聞いていた記者たちも笑って、その場はそれで終わったのだが、そこに参加していなかったサンスポ関東のある名物記者が、あとからそれを聞きつけて、関係者に確認もせずにスクープ記事として書き上げたのだった。当然そのような内容で記事を掲載したのは、サンスポ関東版だけだった。

    田原騎手も抗議したし、田原騎手を慕う関西の若手騎手たちは、サンスポ関東の取材を拒否するという事態にもなった。
    また実際に田原騎手の話を聞いていたサンスポ関西のある記者は、サンスポ関東のデスクに何度も電話で事実と違うという話をしたが、結局取り合ってもらえず、最後には「おもしろかったから、よかっただろ」と言われたという。
    それに絶望したこともあり、その記者は結局サンスポを辞めることになる。

    事実を伝えるとか、おかしなことには抗議するというジャーナリスムとしての矜持を守るのか、あるいはタブロイド紙や一部週刊誌のように売るためには誇張もありとするのか、競馬メディアとしての覚悟を問われた問題でもあったように思う。
    ちなみに個人的には、それまでサンスポを愛読していたが、その後は一切買うのをやめた。

    レースでは、サンエイサンキューがやや行きたるのを田原騎手が懸命に押さえて2,3番手を進む。直線は内を突き、一瞬伸びかけるが、最後は外から各馬に交わされて、大駆けしたタケノベルベットから0.9秒差の5着に敗れる。

    さすがにこれで休養に入るかと思いきや、陣営は有馬記念への出走を決める。
    エリザベス女王杯の前に批判的なコメントを出したことに馬主サイドが反発したのか、あるいは本人からの使い過ぎへの抗議を兼ねた申し出があったのかはわからないが、田原騎手は乗り替わりとなり、関東の加藤騎手が騎乗することになった。

    このレースは中山まで見に行った。ジャパンCで復活したトウカイテイオー(岡部騎手が騎乗停止になり鞍上はもめたが、最終的に田原騎手になった)を応援したかったからだ。結果はブービー人気のメジロパーマーが逃げ切り、トウカイテイオーは見せ場なく11着に惨敗と衝撃的なものだった。その中で、直線半ばでサンエイサンキューが競走中止したことを認識した人は少なかったかもしれない。
    結果を受け入れられずに馬場をぼーっと見ていたら、馬運車が走ってきた。何気なく中をのぞいた時、中のさみしそうなサンエイサンキューと目が合ったような気がした。

    闘病生活、その後

    そのまま診療所に運ばれて診察の結果は、右前脚の橈骨骨折で予後不良という診断だった。
    本来であれば、安楽死処分になるほどの重症である。
    しかしそれまでの罪滅ぼしなのか、あるいはなんとか繁殖に上げたいということなのか理由は知らないが、馬主の強い要望で、命だけはなんとか救って欲しいということで、治療を施されることになる。

    しかし治療といっても、その内容は過酷だった。患部をボルトで固定し、それ以外の3本脚で体を支えるため、血の流れが滞り、蹄が腐る蹄葉炎という病気になりやすい。それを避けるために究極まで体重を落とす必要があった。
    サンエイサンキューは420~440kgと比較的軽量ではあったが、300kg程度まで絞ることになり、それは馬に対して大きな苦しみを与えることになる。それでもサンエイサンキューは痛みにも飢えにも我慢強く耐えて、いったんは蹄葉炎になるも、なんとか克服して奇跡的に骨折からの回復を果たす。
    しかしその代償として脚の骨が曲がってしまい、繁殖牝馬への夢も断たれた。

    命を長らえたサンエイサンキューは余生を牧場ですごすことになる。世話をしていた厩務員さんのインタビュー記事を読んだことがあるが、不自由な体でありながらも、厳しかった競走生活の日々を埋めるように、ひたすら甘えてきたという。
    夕方になり厩務員さんが帰る気配を察すると、サンエイサンキューは必ずボロをした。その処理をするために、しばらく残って作業をすることを知っていたから。それだけ賢く健気な馬だった。

    しかし仔馬時代以来久しぶりのそんな穏やかな日々も、長くは続かなかった。心臓麻痺で急死したのである。骨折した有馬記念から2年もたたない、1994年10月21日のことだった。享年5歳。
    おそらくけがの治療に伴う過酷な減量も影響したのだろう。丁寧に使われていたらもっと活躍したと思うが、あまりにも短すぎる生涯だった。