興奮

著者 ディック・フランシス   出版社 ハヤカワ・ミステリ文庫  

 興奮 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

    著者のディック・フランシスといえば、英国王室のエリザベス王太后専属にもなるなど障害騎手として活躍し、引退後は競馬を舞台とした数々のミステリーや推理小説を発表して、競馬小説の第一人者となった。

    以前テレビ番組で、グランドナショナル(イギリスを代表する障害レース。ダービーよりも人気があるという)に騎乗した際に先頭を走っていた騎乗馬が、ゴール前で突然前後の脚を伸ばして腹から着地する形で競争中止してしまい、その謎を解明したいと推理小説を書き始めたという話をしていた。そのシーンのビデオも流れたが、これまで見たことがない姿で、とても不思議に思ったことを覚えている。

    そのディック・フランシスの代表作の一つが「興奮(原題:For Kicks)」で、英国推理作家協会賞を受賞している。

    主人公のダニエル・ローク(ダン)はイギリス生まれのオーストラリア育ち。父親は弁護士だったが、18歳の時にその両親を事故で失い、以来遺産を元手に競走馬の生産育成を行う牧場を経営して、3人の弟妹たちを育ててきた。
    平穏だが何か満ち足りない日々を送っているダンのもとを、ある日イギリスで競馬の障害レースを監督している組織の理事でもあるオクトーバー卿が訪ねてきて、ある提案をしてくる。いわく、障害レースで八百長を疑われるレースが10ほどあり、あきらかに勝った馬に興奮剤が与えられていたようだが、検査をしても薬物が一切検出されないし、ムチや馬具などにも不審な点はない。また厩舎や騎手、馬主にもそれぞれ共通点がなく、その証拠をつかむことができない。
    そこで潜入して調べる厩務員を探しているという。最初は断るが、結局好奇心と現状を打破したいという強い気持ち、多額の報酬(弟妹を希望の学校に通わせるために必要)にはあらがえず、その仕事を受けてイギリスの競馬社会に、身元の怪しい胡散臭い厩務員に姿を変えて潜入する。

    身元や目的がばれないよう用心深く振舞いながら、八百長を行いそうな怪しい厩舎に近づいてゆき、徐々に仕組まれた陰謀の核心に迫ってゆくのだが、そのプロットや、かつての関係者だからこそ描くことができる競馬社会の実情など、真に迫った描写に引き込まれる。
    現代日本の競馬界とはかなり異なる世界だが、かつてはこんな感じだったのだろうと納得させられる。競馬はその長い歴史の中で、不正との対決が大きなテーマだったのである。

    小説の執筆においては、ディック・フランシスの妻であり出版社に勤めていたメアリーの助力が大きかったと言われるが、読みやすい文章で迫力もあり、また登場人物の個性も魅力的で、つい時間を忘れて引き込まれてしまう。元騎手が書いたと侮れない、本格的な娯楽小説だ。