マヤノトップガンの思い出

マヤノトップガンが11/3に優駿スタリオンステーション(優駿SS)で老衰のために亡くなりました。27歳とのこと。3日の夕刻に体調を崩し、午後6時に眠るように息を引き取ったとのことで、穏やかな最後だったようです。

8月に優駿SSを訪れた時に会っているのですが、雨で見学時間が短かったこともあり、あまり長い間見ることもできず、わずか1枚しか写真も撮っていませんでした。もう少し長く会っておけばよかったと、今さらながらに思います。

マヤノトップガンの名前を初めて聞いたのは、1995年の神戸新聞杯だったと思います。前走で900万を勝ちあがったばかりで伏兵ながら先行して2着。続く京都新聞杯(当時は菊花賞トライアルとして秋に施行)でも2着に入り、夏の上り馬として菊花賞に3番人気で臨みます。
この年の菊花賞は、オークス馬のダンスパートナーが牝馬ながらも挑戦してきて、武豊騎手騎乗もあり1番人気でした。しかしさすがに牝馬で菊花賞の3000mは厳しいだろうと思い、マヤノトップガンから買ったことを覚えています。
レースでは先行したマヤノトップガンが4コーナーで早くも先頭に立って抜け出し、ダンスパートナーやダービー馬タヤスツヨシなどを抑えて優勝しました。この時に鞍上の田原成貴騎手が、十字を切って投げキッスをするというパフォーマンスを披露し、それがとてつもなくかっこよかったことが強く印象に残っています。たしか誰か外国人騎手の真似をしたと聞きました。

次の有馬記念は、疲れのために直前まで陣営が出走をためらっていたこともあり、さすがに無理だろうと無印にしてしまいました。しかし見事に逃げ切られてしまい、悔しい思いをするとともに、その力を再認識させられました。
これでG1 2勝となり、夏までは無名だったマヤノトップガンは、一躍年度代表馬にまで登りつめたのです。まさにシンデレラストーリーでした。

翌年、古馬になってから最初のレースとなった阪神大賞典は、今でも伝説のレースとして語り継がれています。1歳上の3冠馬にして同じブライアンズタイム産駒のナリタブライアンと、3コーナー過ぎに2頭で抜け出すと、4コーナーからハナづらを合わせて全く並んだまま叩き合いに。そのままゴールまで競り合いは続き、ゴール直前で外のナリタブライアンが前に出てアタマ差の勝利。
ナリタブライアンも前年秋はふがいないレースを続けて、もう終わったのではとも言われていたので、1年ぶりの復活となったこのレースは、2頭の強さを改めて印象付けました。

その年にマヤノトップガンは宝塚記念を制したものの、天皇賞(春)、有馬記念と得意のはずの長距離レースではサクラローレルに完敗。
翌1997年は阪神大賞典を勝って天皇賞(春)に臨みますが、連覇を狙って出てきたサクラローレルに次ぐ2番人気。正直言って、サクラローレルに勝つイメージがどうしても浮かばず。個人的にも勝つのは無理だろうと思っていました。
記者も同じ考えだったようで、この時の共同記者会見で田原騎手にどう乗るかの質問をしたのですが、その答えが禅問答のような不思議な回答で、何を言っているのかよくわからなかったことを覚えています。田原騎手は、ある意味天才肌で常人の理解を超えているようなところがあり、個人的にはわりと好きだったのですが。

レースは中団を進むサクラローレルに対して、マヤノトップガンはその後ろの内を進みます。向こう正面で外からサクラローレルが進出を開始しても、マヤノトップガンは後ろで動かず。
4コーナーで先頭に並びかけたサクラローレルは、直線でそれをマークしていた3番人気のマーベラスサンデーとともに抜け出し、直線は2頭の叩き合いに。それに対して4コーナー後方で大外に出したマヤノトップガンは追い込みに賭けます。
それまで先行するレースが多かったマヤノトップガンとしては異例の展開ですが、そこから目が覚めるような末脚を繰り出し、サクラローレルとマーベラスサンデーを並ぶ間もなく交わして1 1/4差の勝利。
田原騎手は、おそらくどう勝つかをずっと考えてきたのでしょう。パフォーマンスをする余裕もなさそうでした。

このレースを最後に引退したマヤノトップガンは、種牡馬としてチャクラ、プリサイスマシーン、メイショウトウコンなどの重賞勝ち馬を出すも、残念ながらG1馬を輩出することはできませんでした。
種牡馬引退後も、功労馬として優駿SSに繋養されており、最後までみんなに愛された幸せな一生だったと思います。

最後に以前撮った写真(画質は悪いですが)と、8月に撮った写真を載せて、冥福を祈りたいと思います。

優駿スタリオンステーションにて 2000年9月24日
優駿スタリオンステーションにて  2019年8月23日

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です